2011年2月2日水曜日

冬の平等院鳳凰堂


先日、かねてより念願の、平等院鳳凰堂にお参りに行って参りました。


笙を持った雲中供養菩薩。ずっとお会いしたかったのです!そのほか、龍笛・篳篥・琵琶・和琴に鞨鼓や鉦鼓、香炉を持っていたり、合掌や印を結んでいたり、舞を待っていたり‥

創建当時は平等院には、鳳凰堂以外にも法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂が建ち並んでいましたが、建武3年(1336年)の楠木正成と足利の軍勢の戦火をはじめ、度重なる災害により堂塔はほとんど廃絶し、現在、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しているようです。


境内の中心となるのが国宝に指定されている鳳凰堂の大屋根には鳳凰が飾られ、また両翼と尾部を延ばした建築は鳥が羽を広げたようにも見えることから、鳳凰堂と呼ばれるようになりました。鳳凰堂建設当時は、壁の色は鮮やかなベンガラで朱色に塗られていたようです。

ちなみに、鳳は雄、凰は雌を指し、羽ある生物の王であるとされているようです。

宇治名物の茶団子をおみやげに購入。ぺろり平らげてしまいました。



平等院鳳凰堂
9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道の別荘「宇治殿」となった。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めました。 ちょうどこの年は、「釈尊の入滅から2000年目以降仏法が廃れ、天災人災が続き、世の中は乱れる」とする末法思想の元年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。当時は西方に極楽浄土が存在すると伝えられ、天喜元年(1053)、京都の最東端である宇治川の西岸に平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成しました。堂内には仏師定朝(じょうちょう)の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。その周りには、飛雲に乗り、阿弥陀如来とともに来迎する菩薩像を表わした52体の雲中供養菩薩が長押上の壁を飾り、西方極楽浄土の様子が再現されたそうです。

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